サイトアイコン 川口印刷工業株式会社

写真で見る120年

明治37年
川口屋荷札店 創業

明治37年(1904)10月、盛岡市八日町(現 本町通二丁目)で、「川口屋荷札店」が創業した。創業者の歳弘松人(としひろ・まつんど)は、妻がやっていた荷札の内職から、儲かると閃き起業を決めたと伝わる。当時の従業員は25名。


大正3年
川口荷札株式会社 設立

大正3年(1914)、「川口荷札株式会社」に組織変更。
八日町にあった木造社屋の姿は、株式会社設立の記念絵はがきに残されている。「川口荷札株式会社」の看板を掲げ、社屋前に荷車や自転車を並べた写真から、当時の様子を知ることができる。

工場外観

大正9年
八日町から社屋・工場移転新築

大正9年(1920)12月、日影門外小路(現 本町通二丁目)に社屋・工場を移転。敷地1,032坪、建物550坪。ドイツ製荷札製造機、アメリカ製荷札製造機を設置した。
当時の外観写真には、社屋左端に赤レンガ造りの工場が写っている。長く使われたこの建物は、平成まで残っていた。盛岡市発行の「モリオカ案内」にも掲載される市内有数の企業であった。工場設備の写真は、荷札製造輪転機。

日影門小路の2代目社屋。左端に写るのが赤レンガ倉庫
2代目社屋の工場設備

荷札全盛期

大正から昭和にかけての資料として、アルバム状に整理された「荷札見本帳」が残っている。実際の見本に料金表をつけた販売用のサンプルで、営業先に配ったものと思われる。「通知書」と書かれた大判の荷札は、川口式袋荷札。袋の中に納品書、送り状などを入れたうえで荷札の役目もなす、当時としては画期的な製品であった。類似品が出回り、大正4年(1915)には特許侵害の訴訟を起こした記録が残るほど、需要のあるものだった。
駅に置かれた「荷札販売公徳箱」は、お金を入れて荷札を買い、その場で宛名を書いて荷物を送れるという便利なもの。附属のインク瓶にまで「川口荷札」の名を入れて宣伝し、鉄道の沿線に販路を拡大していったようだ。
当時は、石板を使う転写方式により荷札や一般印刷物を印刷していた。本社の展示室には、ドイツ産の石板をつかった「証券の飾り枠」の版が展示されている。

荷札のサンプル
荷札販売公徳箱
石版印刷

昭和10年2月
本社工場焼失
スピード再建

昭和10年(1935)2月2日夜11時15分、製本工場から出火し、本社工場が消失する。当時の岩手日報の記事には焼失した部分まで詳細に掲載された。大きな苦難と思われたが、2台の荷札製造機を設置していた赤レンガ造りの棟は類焼を免れ、火災一週間後には荷札製造を開始したと記録が残る。
火災からおよそ2か月、3代目社屋を新築。空地はテニスコートや庭園になっていた。現社屋は、この時の正面玄関のデザインが採用されている。この頃の川口荷札は、1日10万枚を作る能力があった。

昭和10年4月に再建した3代目社屋
赤レンガ倉庫

昭和初期
川口荷札、事業展開とエリア拡大

昭和13年(1938)、東京・深川に東京販売所を開設。戦争の拡大によって、首都圏の大きな工場は人員が確保できなくなり、受注が増えた川口荷札は国鉄や運送会社の対策として、昭和15年(1940)、仙台工場を新築した。昭和18年(1943)、東京工場を建設するも空襲で焼失。昭和20年(1945)8月15日、盛岡にある本社では講堂で玉音放送を聞き、会社は3日間の休業となった。
昭和21年(1946)、東京に営業所を建設。同年、大阪に販売所を開設。昭和23年(1948)、北上製紙株式会社(一関市)を設立。新事業にも着手し、積極的な企業発展をめざした。昭和24年(1949)、戦前から販売先であった北海道に札幌工場を開設。
昭和25年(1950)、雑誌「少女」や「サザエさん」を印刷していた第二単式印刷株式会社を買収。昭和26年(1951)、東京工場を再建。昭和28年(1953)、東京に有限会社川口プロセス社設立。昭和37年(1962)、川口不動産株式会社(現 川口商事)設立。

東京工場
開設当初の札幌工場

昭和40年
川口印刷工業誕生

昭和39年(1964)12月、創業50周年を記念して新社屋完成。昭和40年(1965)、川口印刷工業株式会社に社名変更。年が明けた1月1日深夜のテレビでは「川口印刷工業は今日から新しく誕生しました」という社名変更のCMが流れた。工場には活版印刷に使う「活字」が整然と並ぶ写真が残る。昭和48年(1973)、現在の「本町営業所」部分を増築。

川口印刷工業 誕生
カラーで刷られた荷札製品

昭和45年
岩手国体により景気も上昇

昭和45年(1970)の岩手国体では、三角帽、角底袋、吸い殻入れなど多くの国体グッズを担当。国体は岩手のインフラ整備を加速させ、本社前の道路も旧三戸町まで車が通れるよう拡張された。
昭和50年(1975)、札幌工場と中西印刷(旧)を併合して、札幌市に中西印刷株式会社を設立。昭和55年(1980)、本社にオフセット輪転機、フォーム印刷機、版下作図機を導入。昭和61年(1986)には、70年余り続いた活版印刷部門を廃止。事業の中心がオフセット印刷へと移っていく。

第25回岩手国体(1975)で川口製品活躍(紙製日よけ笠)
オフセット輪転機

書籍の編集や雑誌制作

昭和63年(1988)夏、社内報『拓』を創刊。以来、川口グループの歴史を記録している。平成4年(1992)、長年にわたり編集業務に携わった書籍『図説 盛岡四百年』の下巻 Ⅱ 発行をもって全3巻完成。全3巻セットには新たに特製ケースをつけ、ファンに喜ばれた。
社員の発案による雑誌制作を始めたのも、この頃。平成2年(1980)、住宅関連情報誌『新しい東北の住まい』(後の『クラシェコ』)創刊。平成9年(1997)には、県内アマチュア野球応援雑誌『yell エール』を創刊した。(いずれも廃刊)

『図説 盛岡四百年』全3巻セット
住宅関連情報誌
県内アマチュア野球応援雑誌『yell』

平成8年
5代目社屋完成

平成8年(1996)、5代目となる本社工場社屋(盛岡市羽場)で操業を開始。印刷の前工程は、電算写植からDTPシステムへと移行した。
平成18年(2006)、地域情報発信サイト「チィキーズ」開設(令和元年、閉鎖)。岩手の口コミポータルサイトとして、地域情報を掲載した。平成23年(2011)、北東北エリアマガジン『rakra』事業継承。平成24年(2012)には、東北「道の駅」のフリーマガジン『michi-co』(現『おでかけ・みちこ』)を創刊。平成25年(2013)から、オリジナルブランド・彼是堂として、原寸大絵はがき、盛岡天満宮 狛犬文具、Peccotag(ぺっこタグ)、いわて手帖などを制作・販売した。
平成22年(2010)、インクジェットプリンターを導入。小ロットの印刷物やパネル、什器等の立体的なディスプレイの制作を開始した。平成25年(2013)頃から、ドローン撮影を開始。記録性の高い印刷物や、目を引く動画制作等に活用している。平成28年(2016)、東京事業部新社屋・工場が完成。
平成17年(2005)に設立した株式会社メディアクルーを令和5年(2023)に合併。

盛岡市羽場で操業を開始
岩手をまるごと・チイキーズ
東京都荒川区の東京事業部 社屋・工場

令和6年
創業120周年

令和6年(2024)10月、120周年を迎える。

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